ドイツ第三帝国海軍 重巡洋艦  Kriegs Marine Schwere kreuzer

【 ア ド ミ ラ ル ・ ヒ ッ パ ー 】

更新日時:2008年12月24日




プリンツ・オイゲン バルト海仕様




基準排水量 14,000t 起工 1935年7月6日
全長×全幅 202.8m × 21.3m 竣工 1939年4月29日
喫水 7.74m 造船所ブロム・ウント・フォス社
機関出力/最大速力 132,000馬力/32.0ノット 搭載燃料
航続力
重油3,050t
ノットで6,800浬
搭載機 Ar-196 水上偵察機×3機 射出機 1基
兵装 SK C/34 60口径20.3cm連装砲×4基
53.3cm3連装魚雷発射管×4基
SK C/33 65口径10.5cm連装高角砲×6基
SK C/30 83口径37mm連装機関砲×6基
SK C/30 65口径20mm単装機関砲×8基
装甲舷側 80mm
主砲前面 160mm
主砲天蓋 150mm
同型艦 アドミラル・ヒッパー Admiral Hipper
ブリュッヒャー Blucher
プリンツ・オイゲン Prinz Eugen
ザイドリッツ Seydlitz(未完成)
リュッツォウ Lutzow(未完成)
乗員士官 50名
下士官1,500名



 1939年4月29日。ハンブルクのブロム・ウント・フォス社造船所で、1隻の大型艦が産声を上げた。
 ユトランド沖海戦での活躍を称えられ、バヴァリア王国ナイト爵位を授かった大洋艦隊司令長官からその名をいただいたドイツ第三帝国海軍の重巡洋艦。アドミラル・ヒッパー。
 ヴェルサイユ条約破棄後の再軍備を睨んで1934年から検討が開始されたこの艦は、仮想敵国であるフランスのアルジェリー級重巡洋艦に対抗可能な砲力と、ダンケルクに勝る速力、大西洋での通商破壊作戦に必要十分な航続力を持つものとされた。
 SK C/34 60口径20.3cm砲連装4基8門、SK C/34 65口径10.5cm高角砲連装6基12門、53.3cm魚雷発射管3連装4基12門を備え、32ノットの速力を確保。主砲は有効射程距離、装甲貫通力、散布界のいずれにおいても海軍を納得させるだけの性能を発揮。同時期の対抗艦と比較しても遜色のない装甲防御力を有したこの巡洋艦は、のちに誕生する2隻の姉妹艦と共に、開戦から1945年の春まで、新たに誕生した帝国の興亡を目の当たりにすることになる。

 ヒッパー誕生から約半年―――1939年9月1日。ドイツ陸戦師団はポーランド国境を越えた。
 前月にバルト海での実弾射撃訓練を実施し、練成途上であった同巡洋艦もこれに呼応して臨時哨戒任務に従事。戦闘こそ経験することはなかったが、第三帝国最初の重巡洋艦はこうして戦場に身を投じた。
 9月20日。ブリュッヒャーが竣工した。姉と同じブロム・ウント・フォス製の蒸気タービンと、85蒸気気圧を発揮する高温高圧缶のワグナー缶を足に持つ2番艦。艦首に掲げたブリュッヒャー一族の盾形紋章が勇ましい。排水量1万4000トンを越えるこの艦の完成によって、ドイツ海軍が保有する巡洋艦の数は7隻まで増えた。世界に名だたる大英帝国の海軍力と比べれば取るに足らぬ数ではあるが、英戦闘艦と正面切って撃ち合える、ドイツにとっては何よりも貴重な大型艦であった。ブリュッヒャーの艦命は、このあと半年と少ししか持たないものであったけれども。


 1940年4月上旬。
 ヴェーザー・ユーブンク発動。
「稼動海軍戦力の半数を失うことになっても」実行し、そして完遂する―――ドイツ海軍にとって最初の試練というべき戦いであり、そして本当に稼動駆逐艦戦力の大半を失うことになるノルウェー戦が始まった。
 航行性に劣る垂直型艦首をクリッパー型に改めるなどの工事を終えたアドミラル・ヒッパーはノルウェー海にいた。目標はトロンヘイム。駆逐艦4隻を伴い、山岳猟兵を乗せて悪天候の海を越えていく。荒波に慣れない陸兵たちは「自分の体汁の中に身を横たえながら」極北の海に耐えていた。上陸に成功さえすれば、この猛烈ながぶりから解放されるのだと信じて。しかし、猟兵たちの願いが叶えられるのは、もう少し後のことになる。
 4月8日夜。駆逐艦Z11 ベルント・フォン・アルニムが英駆逐艦と遭遇。交戦を開始したという。
 リュトイェンス提督の命によって反転したヒッパーは射撃を開始した。英駆逐艦グローウォーム。海上に落ちた水兵を探すため単独行動していたのが仇となった。操舵不能に陥ったグローウォームはヒッパーの右舷艦首部に突入、40メートルにわたって引っかき傷を作ったのち、横転・沈没した。幸いにしてこの傷は致命傷となることもなく、ヒッパーはこの後トロンヘイム攻略に復帰……ヴィルヘルムス・ハーフェンに帰港した際、2週間ほどを修理に費やすことになる。

 一方、ブリュッヒャーは姉ほどの幸運に恵まれなかった。
 訓練未了にもかかわらずオスロ攻略部隊に編入された妹艦は、装甲艦リュッツォウ(ドイッチュラントより改名)、軽巡エムデンほか水雷艇3隻、掃海艇8隻、トローラー2隻と共にフィヨルドの奥地を目指していた。戦隊は行程の途中で英潜水艦の襲撃を受けていたが、無傷で切り抜けていた。
 4月8日夜。部隊はオスロ・フィヨルドに突入。
 フィヨルドの入り口を18ノットで通過し、北上を続けていたブリュッヒャーは戦隊の一番先を進んでいた。後方に続くのはリュッツォウ、それからエムデン。さらにその後ろを、その他の小型艦艇が追ってくる。
 深夜。日付は9日になり、時刻は零時をまもなく30分ほど回ろうかという頃合。ブリュッヒャーは艦の両側に位置する要塞島ラウエイ、ボレルネの探照灯に捕まった。たちまち15cm砲弾が降り注ぐ。しかし抵抗は予想されたものだ。歩兵を掃海艇に移乗させ、両島の占領行動に移る。
 その後、部隊は7〜9ノットの低速で北上を開始。入り組んだ地形と夜の闇が行き足を鈍らせる。関門は通過したが、この先にはさらに狭隘の水路と要塞が待ち受けている。ノルウェーの警備艇がブリュッヒャーを照らし、奥地の友軍に発光信号を送った。戦隊は進撃を続けている。オスロの街が近付いてくる。その手前のドレーバク水道。そこが運命の場所だと知る由もなく。
 0520―――そのときがきた。
 ブリュッヒャーは狭い水道を進んでいた。右舷数百メートルにドレーバクの街。左にはオスカルスボルグの要塞。そしてカホルムの要塞砲。1905年に製造されたクルップ社の28cm砲が3門。それが至近距離で火を噴いた。
 カホルムの砲弾は前檣楼と水上機格納庫に命中した。火災が発生する。さらにドレーバクの15cm砲弾が追い撃ちをかけた。ブリュッヒャーも反撃する。しかし正確に砲台を狙えない。敵はこちらの船体のどこに当てても有効打となるが、砲台を破壊するにはその正面面積はあまりにも小さい。加えてこの闇。そして火災と黒煙。状況は悪化する一方だった。
 そしてついに致命傷を受けた。カホルムの地下から発射された2本の45cm魚雷が艦の脇腹を抉り取った。前日にオーバーホールされたばかりの魚雷はその威力を発揮した。敵の只中で機関損傷。しかも、後続の味方艦たちはブリュッヒャーが炎上するのを見て反転している。装甲艦リュッツォウも28cm弾を喰らっていた。艦前方にある唯一の主砲塔が作動不能に陥ったのではどうしようもないのだ。救援は来ない。ブリュッヒャーは孤立した。
 舵機も破壊され、海岸に乗り上げるのを防ぐために錨を下ろす。要塞砲の射界からは脱していたが、艦の受けた損傷は大きすぎた。弾薬庫が爆発し、艦中央部は火の海と化し、電気回路は停止、電灯が消えて傾斜角は18度。ボイラー室の隔壁が破れ、燃料タンクが裂けた。どうしようもなかった。
 0700―――艦長ハインリヒ・ヴォルタク大佐は総員退艦を下令。ただひとつ残されたカッターに歩兵たちが乗り移り、泳げないものたちに水兵から救命胴衣が手渡される。
 0732―――重巡ブリュッヒャー、横転。
 ドイツ海軍期待の新鋭巡洋艦は、こうして沈んだ。

 戦隊が目標にしていたオスロ攻略は、その日のうちに空挺部隊の手によって成し遂げられた。


 2ヵ月後。1940年6月7日。
 ノルウェー戦も佳境を迎え、大国フランスがドイツ機甲師団に蹂躙されつつある中、グローウォーム衝突の傷を癒したアドミラル・ヒッパーは再び極北の海にいた。未だ抵抗を続けるノルウェー北部の街、ハルスター攻撃がその任務であった。ハルスター水域には、暗号解読によって戦艦1隻、空母2隻を含む英艦隊が存在するとされていたが、こちらにはドイツ海軍虎の子の巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウに加え、4隻の駆逐艦も一緒だった。戦力に不足はしていない。実際には英戦艦(ヴァリアントと見られていた)の存在は誤認だったけれども。
 司令部はハルスター攻撃を命じている。英艦隊に守られた水域を攻撃せよと。
 しかし、どうにも様子がおかしい。偵察機の情報によれば、目標水域には砲艦1隻しか見当たらないという。ついでに言えば、戦隊はこれまでにいくつかの西進する敵船団を発見しているが、ノルウェーに向かう敵がまるで見当たらない。作戦会議の結果、ハルスターは空っぽで、英軍は撤退中ではないかということになった。
 6月9日。ハルスター攻略の任を離れ、付近の哨戒活動に当たっていた戦隊は、ノルウェー船籍のタンカーと英トローラーを発見する。戦隊はこの不運な2隻(オイル・パイオニアとジュナイパー)を一方的に撃沈し、更なる敵を求めて索敵機を飛ばした。
 次に餌食になったのは排水量2万トンの兵員輸送船オラマだった。もう1隻、アトランティスという病院船も発見されていたが、こちらは見逃された。ヒッパーとZ10 ハンス・ルーディの砲火がオラマを仕留めた。
 この後、歴史的快挙となる戦艦による空母追撃戦が展開されることになるのだが、残念ながらヒッパーはこれに参加することができなかった。ノルウェー海岸を進む陸軍部隊を支援するためトロンヘイムに向かったことにより、英空母グロリアス撃沈の手柄はシャルンホルスト級だけのものとなった。
 次にアドミラル・ヒッパーが大規模な敵と遭遇するのは、1940年も終わりに近付いた聖夜のことになる。


 1940年12月24日。大西洋。
 味方潜水艦が探知した船団を追っていたヒッパーは、その日、北アフリカに向かう別の船団と遭遇する。商戦20隻を擁するWS-5A船団だった。昨年9月に通商破壊のために出撃しておきながら(ドイツ艦にありがちな)機関トラブルに見舞われ、ドックに引き返した思い出がまだ覚めやらぬ今、この船団を攻撃しない理由はなかった。アドミラル・ヒッパーはただちに戦闘態勢を整える。
 だが、危険と分かりきっている海域に商船を裸で送り出す敵ではなかった。重巡バーウィック、軽巡ボナヴェンチュア、デュネディンのほか、駆逐艦6隻……そして空母フューリアス。ヒッパー単独で立ち向かうには、少々荷が重過ぎる相手だった。幸いにして敵空母は航空機輸送の状態であり、当面の敵として立ちはだかったのはバーウィック以下の水上戦闘艦。……極上の獲物を前にしながら、しかし圧倒的に劣勢であるヒッパーは主砲を撃ちながら退却するほかなかった(ただしこの先頭で、同艦は敵重巡と商船に数発の命中弾を得た上で、無傷で戦場離脱することに成功している)。
 アドミラル・ヒッパーにとって本当の好機が訪れたのは、1941年2月12日でのことだった。
 アゾレス諸島沖で捕捉されたのは、SLS-64と名乗る「護衛部隊の存在しない」輸送船団だった。眼前に見える商船の数は19隻。それが、駆逐艦1隻たりとも随伴せずに逃げ惑っている。ドイツ海軍上層部が理想とした光景が、そこに広がっていた。
 20.3cm主砲。長砲身の連装高角砲。53.3cm魚雷発射管。第三帝国が生み出した鋼鉄の海狼は、あらゆる牙を用いてその船団を引き裂いた。船と船の間を幾度も往復しながら、アドミラル・ヒッパーが咆哮する。30分以上続いたこの戦闘により、7隻以上の商船が犠牲となった(資料によって喪失数に差異あり。13隻とする説もある)。
 ノルウェー戦で失われたブリュッヒャー、まもなく実戦に投入されることになる3番艦プリンツ・オイゲン、そのどちらもがこうした通商破壊戦に参加できなかったことを考えると、この一番上の姉妹艦はドイツ海軍巡洋艦としてもっとも戦機に恵まれた艦だったのであろう。そして、その幸運なヒッパーでさえもが、これ以後(シャルンホルストやティルピッツと同じように)敵商船を攻撃する機会を得られなかったことは、ドイツ海軍水上戦闘艦のもっとも輝かしい瞬間が、この時期を境に終わってしまったということでもある。

 1941年5月18日。
 アドミラル・ヒッパーが最高の戦果を挙げて本国に帰還し、キール軍港で修理とオーバーホールに明け暮れている頃。
 3番艦プリンツ・オイゲンはゴーテン・ハーフェンを出港し、戦艦ビスマルクと合流すべくアルコナ岬に向けて航行していた。
 1940年8月に就役して以来、ビスマルクとの共同作戦を目指してバルト海で訓練に従事していたオイゲンは、本来であれば4月中にこうした行動をとっているはずであった。しかし英空軍機の敷設した機雷に接触して燃料タンクや電気装置、スクリューシャフトのカプリングなどに大きな損傷を受けたため、作戦は延期……この日、ようやく港外に出ることを許されたのであった。
 5月19日、アルコナ岬沖でビスマルク、駆逐艦部隊と合流。
 5月20日、カテガット海峡を通過。―――しかしこのとき、運悪くスウェーデンの巡洋艦に遭遇。ビスマルク出撃の兆候をかぎつけていた英軍に動きが知られてしまう。
 5月21日、コルス・フィヨルドにて給油中、英軍機の触接。
 5月22日、艦隊は駆逐艦を分離、ビスマルクとオイゲンだけで進撃を再開する。
 5月23日夕刻、アイスランド北端沖を通過。戦隊はデンマーク海峡へ差し掛かる。英水上艦の接敵を受けたのがこのときだった。
 1922、重巡サフォークがドイツ艦隊を発見。執念深い追跡によってついに目標を捉えた英国海軍は、本命の戦艦部隊が駆けつけてくるまでの触接行動に移る。リュトィエンス座乗のビスマルクが威嚇射撃を実施するが、敵は巧妙に距離を保ちつつ新型レーダーによる触接を続けてくる。
 ドイツ側からしてみればこざかしいこの索敵部隊は、しかし悪化した天候と誤った判断により、突如ビスマルクから離れる動きを見せた。執拗な追跡に苛立ったビスマルクが反転して砲撃戦を挑んでくるものだと思い込んでしまったのだ。実際にはそんな動きもなかったというのに。
 偶然によって索敵網を抜け出したドイツ艦隊が再び捕捉されたのは、その翌日―――5月24日未明のことだった。
 0537―――プリンツ・オイゲンの水中聴音機が接近する敵艦を探知した。数は2隻。先ほどの巡洋艦部隊だろう。ドイツ艦隊の面々はそう判断したのだが、今度は彼らが誤認する番だった。実際に接近していたのは、英国海軍が誇る巡洋戦艦フッドと、新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズだった。
 しかしここでも混乱は発生した。ドイツ艦2隻のうち、先頭を進んでいるのはプリンツ・オイゲンだったが、イギリス側はこれをビスマルクと取り違えていた。敵司令官は気付かずにそのまま「先頭艦に集中砲火」を命じる。0553、フッド射撃開始。運命の一弾はこうして放たれた。
 オイゲンも負けてはいない。20.3cm砲で反撃を開始する。初弾狭叉。第二斉射―――惜しくも外れる。しかし三度目の砲撃はフッドを捉えた。このとき、時刻は0556。フッドが砲撃を開始してからわずか3分後の出来事だ。
 そしてビスマルクの主砲も火蓋を切る。目標はフッド。オイゲンは照準を2番艦に変更する。
 フッドが弾薬庫に直撃を受けて大爆発を起こしたのは0559。戦闘開始からわずか8分後のことだった。乗員1416名が逃げる間もなく海底に引きずり込まれ、3名が救助されたに過ぎない。
 0602―――プリンス・オブ・ウェールズが被弾。またしてもビスマルクの巨弾が敵を捉えた。艦載機クレーン付近に命中し、燃料の誘爆が恐れられたウォーラス飛行艇は無人のままカタパルト射出されて海面に激突、四散した。さらに1分後、ウェールズは艦橋に被弾。フッドの司令部に引き続きPOW艦長まで失った英部隊は退却を始めた。
 0609―――戦闘終了。チャーチルが「世界で最も美しい戦闘艦」と称したフッドは姿さえなく、新鋭戦艦はどのあたりが新しいのかを探さねばならないほどひどい有様であった。オイゲンが英部隊の接近を告げてから32分の間にデンマーク海峡での英独戦艦対決は始まり、そして終わった。
 戦闘によって艦首に損害を受けたビスマルクは―――というより、リュトィエンスは―――ライン演習作戦の中止を決定、プリンツ・オイゲンはビスマルクと分かれて単独での通商破壊続行を命じられた。燃料漏れと浸水により速力の低下したビスマルクに、無傷のオイゲンを付き合わせるわけにはいかなかったのだろう。そしてそれが、オイゲンとビスマルクの永久の別れになる。
 この後、ビスマルクは英国海軍の総力を挙げた追撃と、ほんのいくばくかの誤解、すれ違い、偶然の結果によって大西洋の波間に没することになる。……「無傷」と判断されたはずのプリンツ・オイゲンが、機関室装置の故障や蒸気漏れ、スクリューの損傷によって作戦を中止してブレストに入港したのは、それから数日後のことだった。


 地獄の番犬―――「ツェルベルス」と名づけられた海峡突破作戦が実施されたのは1942年2月11日のことだ。
 作戦部隊主力はベルリン作戦とグロリアス撃沈で名を上げたシャルンホルスト級2隻と、ライン演習作戦とその後のブレスト爆撃で受けた損傷から立ち直ったプリンツ・オイゲン。これらの大型艦を護衛すべく、Z-25、Z-29、Z4 リヒャルト・バイツェン、Z5 パウル・ヤコビ、Z7 ヘルマン・シェーマン、Z14 フリードリヒ・イーンら6隻の駆逐艦、14隻の水雷艇が同行する。上空をカバーするのは、アドルフ・ガーラントが直率する空軍戦闘機部隊直掩隊だ。
 行く手には哨戒配置された英潜水艦や、レーダーを備えた空中哨戒機、陸上砲台に沿岸航空隊、魚雷艇に駆逐艦といったいくつもの障害が待ち受けていた。加えて、狭隘なドーバー海峡を通過する時刻は日中の真っ只中である。「艦隊の全てを失うか、よくても重大な損害を招くことになる」とレーダー海軍司令官に言わしめた無謀な計画であったが、であるからこそ―――周知のように―――この作戦は成功した。
 ドイツ戦艦の脱出を警戒していた英潜水艦に探知されることもなく、空中哨戒機のレーダー故障という偶然に助けられ、ル・トゥケ沖で偵察機に発見されたときでさえただの船団だと誤解されるという幸運に守られた艦隊は、英軍がその正体を特定したのちに繰り出した数々の妨害を振り払い、それぞれが目指すドイツの港に辿り着いたのだった。プリンツ・オイゲンの場合、それは2月13日朝、エルベ河口のブルンス・ビュッテルであった。
 番犬はドイツへの脱出に成功した。3隻の大型艦は沈むことなく本土に帰還したのだ。ヒトラーの目的であった「大型戦闘艦のノルウェー方面への転戦」はこれによってその行程のほとんどが達成されたといってよかった。しかしそれは見方を変えるなら、ドイツの保有する全ての通商破壊艦が、その狭い海域に閉じ込められたということでもあった。
 作戦こそ成功と称してよいものであったが、海峡突破中に触雷してシャルンホルストは二度も損傷を受け、グナイゼナウはこれ以降まともな戦闘行動をとることも許されずに解体処分されている。そしてプリンツ・オイゲンさえもが、この後すぐにトロンヘイムへ向かう途中で英潜トライデントの魚雷を受けて舵を失い、また貴重な時間を失うという結果に陥っている。3月に修理とオーバーホールを終えたアドミラル・ヒッパーがトロンヘイムに入港したとき、ようやく合流できた姉妹艦の片割れはその無残な肢体を姉に晒したことになる。
 これ以前も、そしてこれ以降も同じことが言えるのであるが、ドイツ海軍で唯一のこの重巡洋艦姉妹は、どちらかが行動しているときは残りの片方が修理なり整備なりでドック入りしているというパターンに終始しており、まるで互いが互いを支えあって動いているようで興味深い。これを姉妹の共同作業と取るか、あるいは姉妹でありながらついに終戦まで同一行動を取れなかった不幸と見るかは判断が分かれるところであるけれども。


 ここで視点は再びヒッパーに移る。
 前述したように3月にノルウェーに移動したアドミラル・ヒッパーであったが、これ以後の同艦の戦歴はほとんど見る影もない。ノルウェー海域には装甲艦(この時期にはすでに重巡洋艦に分類変更されている)アドミラル・シェア、戦艦ティルピッツといったドイツ海軍水上艦の大半が舳先を連ねていたけれども、大戦初期に受けた打撃から立ち直りつつあった英軍と、ついに対独参戦を果たした米軍はじわじわとその包囲網を狭めており、ドイツ艦隊に作戦する自由を与えることがなかった。
 1942年7月には有名なPQ17船団攻撃(レッセルシュプルンク作戦)に出撃したもののヒッパー自身が戦果を挙げることはなく、9月末にバレンツ海で機雷敷設任務に従事した後はまたしても機関の修理作業に追われている。そして12月31日に発生したバレンツ海海戦は、アドミラル・ヒッパーが参加した最後の大規模戦闘ということになる。
 文字通り凍て付く荒海と化した極北の海を東進する援ソ輸送船団―――JW51B追撃に参加したのは、重巡(装甲艦)リュッツォウ、駆逐艦Z29、Z30、Z31、Z4 リヒャルト・バイツェン、Z6 テオドール・リーデル、Z16 フリードリヒ・エッコルト、そしてアドミラル・ヒッパー。率いるのはオスカー・クメッツ中将。敵船団を取り巻くのは軽巡、駆逐艦で構成された小部隊。戦力で比較するならば、重巡2隻を有するドイツ側が圧倒的に有利だった。
 戦闘開始は0930頃。輸送船を守る敵駆逐艦に対し、アドミラル・ヒッパーは20.3cm砲を発射した。0936、クメッツは「敵輸送船団と交戦中」と報告する。敵駆逐艦も黙ってはいない。オンスロー、オーウェルの両艦は雷撃に見せかけた機動を繰り返し行なってヒッパーに転針を強いる。しかし四度目の接近のとき、ヒッパーの砲弾がオンスローの動きを止めた。1019、オンスロー被弾。傷付いた駆逐艦は煙幕を展開し、船団の中に舞い戻る。護衛部隊の指揮はオビディエントが引き継いだ。
 この時期、極北の海は視界が極端に狭い。まともな昼間光量が得られるのは正午近くの2、3時間だけで、それ以外は夜も同然という地点である。ドイツ艦隊は二手に分かれて鋏を閉じるように船団を捕捉する計画であったが、この視界不良と「むやみに損害を受けてはならない」という総統命令によって自由な動きを封じられた襲撃部隊は、彼らが望むほどうまく動くことができずにいた。リュッツォウと駆逐艦3隻のグループがヒッパー部隊と合流したとき、敵船団はその刃の隙間をすり抜けてしまっていたのだ。
 それでもクメッツは攻撃を続行する。リュッツォウに反転を命じた後、英護衛部隊に向かっていく。
 ヒッパーの砲火はさらにアケイティーズを大破、炎上させた。残るオーウェル、オビディエント、オブデュリットがアケイティーズ救援に向かうが、1928年に起工されたこの旧式駆逐艦は結局失われることになった。
 護衛駆逐艦5隻のうち1隻を撃沈、1隻を撃破したヒッパーであったが、ドイツ側が挙げた戦果はこれで全てであった。1132、雪嵐の中を越えて来た英軽巡シェフィールド、ジャマイカがその牙を剥いた。イギリス製6in.砲弾がヒッパーの周囲に落下する。
 敵巡洋艦はいないものだと考えていたヒッパーにとっては奇襲といってよかった。砲撃を避けるべく、急激に舵を切る。それがいけなかった。1133、この雪と闇に包まれた世界でも恐ろしく正確に飛来した砲弾は、転舵によって脇腹を見せていたヒッパーの右舷船体下部を直撃、第三罐室を破壊した。機関損傷。速力28ノットに低下。
 敵弾はさらに飛んでくる。今度は回頭を続けていたヒッパーの左舷に命中した。2発。航空機格納庫が炎上する。
「―――巡洋艦を危険に晒してはならない」
 第三帝国総統が幾度か発したこの命令は、ここでもヒッパーらの行動を制約した。クメッツはこれ以上の戦闘継続を断念し、1137、駆逐艦部隊に西へ退避するよう下命した。
 しかしここでも視界不良による混乱が、ドイツ側に更なる損害を与えてしまう。
 クメッツの退避命令が届くか届かないかのうちに、英巡洋艦をヒッパーと誤認したフリードリヒ・エッコルトが至近距離から榴弾を浴びた。シェフィールドの6in.砲弾が7発。エッコルトは全ての乗員と共に氷海の波間に消えた。
 戦闘が終わってみると―――結果は酷いものであった。軽巡2、駆逐艦5隻を相手にした戦い。戦力的には有利であったはずの戦にも関わらず、撃沈できたのは旧式駆逐艦ただ1隻。主目標であった商船は無傷のままムルマンスクへ入港している。こちらは重巡アドミラル・ヒッパーを撃破され、エッコルトが沈没。総統命令が艦隊の自由を奪っていたとはいえ、完全な敗北であった。
 ヒッパーはアルタ・フィヨルドで応急修理を受けたのち、1月末にナルヴィクのボーゲン湾に移動、約2週間後に軽巡ケルン、駆逐艦1隻を伴って本国に帰還した。この後、同艦は予備役に編入されて1943年を過ごし、翌44年に練習艦として復帰……5ヶ月に渡ってバルト海で試験・訓練を行なう。しかし英空軍による空襲、機雷封鎖等で港に閉じ込められる状態が続き、ヒッパーの行動はほとんどないままに最後の年が訪れる。
 1945年1月29日、ただ1基の稼動機関を頼りにゴーテン・ハーフェンを出港し、キールに移動したアドミラル・ヒッパーは、修理が終わらないまま4月9日、英空軍の空襲を受けて大破―――5月3日自沈処分という形で終戦を迎えることになる。
 大戦勃発とほぼ同時に作戦行動を開始し、トロンヘイム攻略やユーノー作戦、大西洋での英輸送船団襲撃に活躍した重巡は、終戦後の1949年に解体され、その姿を消した。
 ドレーバク水道で非業の戦没を遂げたブリュッヒャーや、ついに通商破壊作戦に参加できなかったオイゲンと比べれば、比較的ドイツ艦らしい生涯だったといえるのかもしれない。


 さて、ツェルベルス作戦を終えて転戦したプリンツ・オイゲンであったが、英国海軍を相手に戦ったのは、実のところあの1942年2月が最後ということになる。英潜トライデントによって艦尾が折れ下がるという損害から復旧したのが同年10月27日で、その後2ヶ月間は訓練を行なっている。
 1943年1月9日、訓練課程を修了したオイゲンはシャルンホルストと共にノルウェー進出を命じられ、出港……しかしスカゲラク海峡で英軍機に発見され、奇襲効果はなくなったとして作戦中止。1月25日にも同様に出撃するが、またしても引き上げを命じられるという結果に終わっている。
 以後9ヶ月間に渡り、士官候補生の訓練任務に従事し、10月1日に現役艦として復帰。次に派遣されたのは、これまでと打って変わってフィンランド湾。1944年6月である。対ソ戦が開始されてからちょうど3年を迎えるが、その間に戦局は悪化、その任務も陸軍の撤退支援という防御的なものに切り替わっていた。米英のレンドリース物資を糧に完全に息を吹き返したソ連軍は、大規模反攻作戦バグラチオンを発動―――昔日の勢いを失ったドイツ軍を一気に追い込んでいった。そうした戦況に流されるようにして、オイゲンの行動も必然的に対ソ連向けのものとなっていく。
 8月。リガ湾で陸上砲撃を実施。目標は沿岸から25キロ離れたトゥクムのソ連軍陣地。搭載したアラド水上偵察機も参加しての対地支援攻撃となった。
 9月上旬。再びフィンランド湾。ホグラント島攻略作戦に参加。
 9月半ば。ゴーテン・ハーフェンに帰還。しばらくののち、フィンランドのケミから脱出する輸送船団を護衛。
 10月11日。東プロシア戦域北部、メーメリ防衛戦を支援。主砲弾600発以上を発射。
 10月13日。弾薬補給を受けて再砲撃(370発)。
 10月15日。一連の砲撃任務でも大きな損害を受けずにソ連軍の攻勢を足止めしてきたオイゲンだったが、夕刻、霧の中をゴーテン・ハーフェンに進入した際、軽巡ライプツィヒと衝突、約1ヶ月間を修理で過ごすこととなる。
 しかし11月20日には再びリガ湾でソ連軍陣地に主砲弾500発以上を撃ち込んでいる。この時期、ドイツ陸軍部隊は防戦一方であり、重砲による支援射撃を受けられなかった陸の将兵たちにとってオイゲンの20.3cm砲は何にも勝る号砲であったろう。砲身のライフルが擦り切れるほど撃ちまくったオイゲンは、ここで修理のためゴーテン・ハーフェンへ帰投する。
 1945年1月半ば。修理完了。再度の出撃が可能となる。しかしこのとき、戦場はドイツ領内に迫っていた。
 1月末。ケーニヒスベルクのソ連軍に主砲弾870発以上を発射する。が、もはやオイゲンの砲撃があろうとも戦況を変えることはできない。弾薬不足も深刻化する。
 3月半ば。ようやく再出撃。目標は、いよいよドイツ本国に入る。その中にはゴーテン・ハーフェンも含まれていた。帰る港さえ奪われながら、姉妹艦を失った孤独な重巡は戦い続けた。標的はソ連軍陸上部隊。しかし砲弾が抉る大地はドイツのものだ。ツォポット、ヘラ、そしてダンツィヒ。
 どれだけ砲弾を浴びせようとソ連軍の進出は止まるところを知らず、祖国が徐々に崩れ落ちていく様を眺めながら、プリンツ・オイゲンはバルト海を離れてコペンハーゲンへ辿り着いた。
 5月7日。艦籍抹消。
 5月8日。英国海軍に引渡し。
 12月。米軍に引き渡され、合衆国海軍に編入。アメリカ本土に回航される。

 1946年7月1日。マーシャル諸島・ビキニ環礁。
 クロスロードと命名された原爆実験の海域に、オイゲンの姿があった。新型爆弾炸裂後、膨大な熱量と放射能の嵐を浴びせられながらも、ドイツ海軍の巡洋艦は浮かび続けた。
 7月25日。二度目の原爆実験。オイゲンはこれにも耐え切って見せたが、汚染が激しく修理は放棄された。のち、クェゼリン環礁に移泊。そして浸水が発生した。
 12月22日。プリンツ・オイゲン、沈没。

 たった3隻の姉妹艦……初陣で失われたブリュッヒャー。バレンツ海で運命の一弾を浴びたアドミラル・ヒッパー。大戦末期はソ連軍相手に戦い抜いたプリンツ・オイゲン。列強各国の中でももっとも少ない数の重巡部隊。英国海軍という巨大な敵を相手に戦い続けたドイツ重巡洋艦の、これが終焉だった。






別アングルのプリンツ・オイゲン
プリンツ・オイゲン


オイゲンの"猫の背"砲塔

プリンツ・オイゲン







※資料によって戦闘時刻や被害状況の数字が異なっているものについては、
「呪われた海 〜ドイツ海軍戦闘記録〜」の方を採用しています。


写真:"GERMANY"
参考:「世界の重巡洋艦パーフェクトガイド」
「呪われた海 〜ドイツ海軍戦闘記録〜」
「世界の軍艦イラストレイテッド4 ドイツ海軍の重巡洋艦 1939-1945」





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