鋼鉄の咆哮1941 【真珠湾の赤い翼】
プロローグ
1941年12月8日 ハワイ沖
昨夜から続いていた風雨は、いっこうに収まろうとしなかった。絶えず強風が吹き荒れ、波涛が艦を叩く。期待された晴れ間は見えず、ただ暗雲だけが広がっていた。ときおり天をも揺るがすような雷鳴が轟き、暗い海上に刹那の光を灯していた。時計は日の出が近いことを教えているが、東の空は少しの光明も見せず、そこは陰鬱な灰色の雲海に覆われている。
作戦は中止になるんじゃないか。
そんな声が聞こえた。それに被さるようにして、別の音階が響く。馬鹿な。ここまで遠征しておいていまさら引き下がれるものか。しかしこの天候では・・・。彼等は寸暇も惜しんで猛訓練を重ねてきたんだ。ここで引き返すわけには・・・。あの空模様を見てまだそんなことが言えるのか。いくら一騎当千の熟練搭乗員といっても、今発艦させるのは自殺行為だ。なんだと貴様・・・
「その辺にしておきたまえ」
とりわけ大きな怒号、というわけではなかった。それなのに周囲の喧騒は静寂を取り戻す。荒波が船体を打ち付ける音が艦橋に澱んで届く。声の主は、緊張の中にも穏やかさを含んだ声で続けた。
「君達が騒げば空が機嫌を取り直すのでもあるまい」
洋の東西を問わず、長の発言が絶対的な響きを持つことに変わりはない。その一言で、不毛な言い争いは幕を閉じる。言葉を戦わせていた一人が応じた。はっ。失礼しました、長官。
「それでいい」
世界最強の空母機動部隊を率いる老将―――南雲忠一は答えた。未だ憮然とした表情の片割れに顔を向ける。・・・大事の前の小事だ。緊張するのは構わないが、揉め事は避けてくれ。分かっております。うん。
(有能ではあるのだがな。押しが強すぎるのは困った要素だぞ、源田君)
口には出さず言葉を内側に押し込んだ南雲は、先ほどまで航空参謀と張り合っていた気象参謀に語りかける。
「で、どうなのだ。回復の見込みはあるか?」
「何とも言えませんね。ここ2、3日の天候は赤子の機嫌よりも移り変わりが激しくて、先がまったく読めません」
「好転の兆しも見えないか?」
「どうでしょうね。下手をすると、このまま数日間はこの天候のままかもしれません」
気象参謀の言葉に、艦橋の誰もが唸りを隠せなかった。―――作戦中止か・・・?
―――真珠湾奇襲作戦―――
帝国海軍が保有する大型空母6隻の艦載機を以って、米太平洋艦隊の母港を攻撃、敵主力艦を一気に葬り去る奇襲作戦。
このために海軍は全ての正規空母をこの一艦隊に集結させ、
彼等は濃霧と荒天が支配する北太平洋を超えてここまで来た。
それを中止せざるを得ないというのか。
志半ばにして果てろというのか。
「いけません、長官。我々が危険を冒してまで太平洋を横断したのは、敵太平洋艦隊を無力化するためであります。貴重な油を消費して手ぶらで帰ったのでは、末代までの笑いものになりますぞ」
「航空参謀。気持ちは分かるが、この天候では艦載機は飛ばせない。搭乗員を海の中へ放り出すようなものだ」
「このままでは海軍の沽券に関わります。このままおめおめと帰還すれば、陸軍の連中からも何を言われるか・・・」
「源田君。無理なものは無理だ。あれを見たまえ」
南雲が指したのは、赤城と共に一航戦を形成する大型空母、加賀だった。元は長門級戦艦の後継艦として建造されながら、一連の事情により空母への改装を余儀なくされた艦。20cm砲10門を備え、艦容積の大部分を占める三段式格納庫の採用により、72機もの作戦機を運用可能。排水量は3万トンを優に超える。
「その加賀ですらロールを押さえ込めずにいるのだ。より小柄な二航戦の空母なら、状況は推して知るべしだよ」
「・・・・・・」
反論の余地を失った航空参謀は、口をつぐむしかなかった。
「それよりも問題は、このあと我々がどうするべきかだ」
「・・・・・・」
「天候の回復を信じて待つか、素直に引き下がるか」
「山口少将なら、回復も待たずに発艦させそうですがね」
応じたのは草鹿龍之介だった。階級は大佐。この第一航空艦隊の参謀長を務める。
「多聞丸か。あいつならやりかねんな」
多聞丸とは、第二航空戦隊を率いる山口多聞のことだ。階級は少将。見敵必戦を地で行く、海軍きっての闘将。まるで布袋さんのような顔つきだが、内に秘めた闘志は尽きることがない。
「五航戦の原さんなら何と言うだろう」
「さてな。しかしこの荒れ模様では連絡艇も接舷できまい。相互連絡は発光に頼るしかないぞ」
(つまり、今後の行動は俺の決断にかかっているというわけか)
他の者も同じ考えに至ったのだろう。艦橋の視線全てが南雲に向けられた。空気が張り詰める。重い。・・・撤退か。待機か。全ては俺の腹ひとつ。沈黙が続き、大気はその重みを増す。
風雨がガラスを叩く。波涛の砕ける音が周囲に満ちる。黒灰色の雲が流れた。
長い黙考の果てに、南雲は息を吸った。
「前方上空に異変!」
それは見張りの声だった。この激しい雨にかき消されまいと声を荒げて報告する。
「光が見えます!」
「何だと?」
艦橋の注意は東の空へ向けられた。南雲も視線の先を合わせる。目を疑った。「赤い・・・光?」
見目鮮やかな赤・・・ではなかった。いや、それは赤だったのかどうか。青・赤・黄・紫を配合して灰色の空に埋めるとこんな状態に見えるかもしれない。限定して何色だと断言するのははばかられた。なにより、その模様が禍々しい。なんだ、この胸を締め付けるような圧迫感は。
思考は一瞬だった。次の瞬間、全てが白光に覆われた。目が眩む。何も見えない。瞼を閉じる。だが白い。なんだこれは・・・!?
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