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マスードは、誰とでも対等に向かい合うことを求めていた。組織づくりで 立ち寄った村では、馬に乗ったままでは失礼だと村の手前で馬を下り 歩いていった。また無名の一戦士にも彼は礼を尽くした。戦士たちも 戦闘での彼の勇敢さや病気で苦しむ仲間を看病するマスードの優しさ を讃えていた。マスードは、未来の理想だけを説くのではなく、 いまを生きている人間を、大切にする指導者でもあった。わずかな財源 を割いて、多くの学校も建て病院を造ろうとしていた。
それは人々の支持なしには戦いを続けていくことができないと考えて いたからなのかも知れない。1952年アフガニスタンのパンシール峡谷 のジャンガラック村に生まれたマスードだが、この「マスード」という名前 は「戦闘名」(運の良い人)という意味で、アハマッド・シャーが彼の本名 である。軍人の父を持つ家に生まれたマスードは、幾度となく父の転勤 によってアフガン各地を転々としたのちカブール大学建築学科に進む。
カブール大学に入学してまもなく改革への二つの潮流の一つだった イスラム回帰主義運動に参加するようになっていった。幼い頃からモスク に通い、熱心なモスリムになっていたマスードは、当時もう一つの潮流と なっていた「マルクス主義」による共産主義が力を伸ばし、 イスラムの信仰が疎かにされていく風潮に危惧の念を抱いてたのだ。
やがて政府による弾圧が強まり、マスードの仲間が逮捕・獄中されていく 中でマスードは、仲間たちとパンシールで蜂起を試みるが失敗、 以後3年間をパキスタンで過ごすことになった。1978年、左翼勢力による クーデターで政権を手にすると、マスードは故郷のパンシールに帰還。 28人の仲間と共に戦いを始めイスラム解放区を実現。 しかし、1979年12月イスラム革命の中央アジアへの波及を恐れたソ連が 軍をも侵攻させてきたのである。
マスードは、パンシール峡谷を拠点にしてソ連からの補給路を攻撃した。 ソ連は幾度も大攻勢をかけたが、マスードの知略の前に敗退を続けて いくのだった。マスードはソ連軍に「パンシールのライオン」と恐れられ その名を世界に知られるようになっていった。こうして、 彼の長いゲリラ活動の基盤が造られていったのだ。
マスードが、いちばん力を注いだといわれるのが、このゲリラ戦線の統一 だった。アフガニスタンという国は多民族国家で、その50%を占めるのが アーリア系のパシュトゥーン族である。次にペルシャ系のタジク人が30% をモンゴル系ハザラ族・ウズベク人・トルクメン人(10%)などが共生する。 ゲリラ組織も、それぞれが党派をつくり抗争が絶えなかったのだ。 また、周辺国の支援がさらに人々を分断した。国内にパシュトゥーン人を 多く抱えるパキスタンは、アフガンの同じパシュトゥーンの戦士組織を強力 に支持した。その分タジク族への支援は少なかった。
またイランは、同じイスラムでも少数派のハザラ族を支援していた。こうして 各派が主導権を演じていく中、マスードは民族の違いを乗り越え、同じ イスラム教徒としての団結を訴えた。ソ連侵攻当時に、こうしてつくられて いった各民族組織による、戦士組織も統一がなければソ連を、この国から 追い出すコトはできないと各地の指導者を説得して歩いたのだった。 ソ連軍から100万ドルの賞金をかけられ、また対立する組織からも命を 狙われる中、マスードは精力的に動いていった。そのソ連との戦いもソ連 が軍の10万人にも及ぶ死傷者と9年間で450億ドルという巨額な戦費を 使い撤退していった。のちにソ連経済を疲弊させ、 ソ連崩壊の一因になったことは、いうまでもないだろう。
 
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