パンシールの獅子

国内外社会問題
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    2001.9.9に暗殺されたマスード将軍の生涯を、書き綴ったものです。TOP


  ※故
アハマッド・シャー・マスード将軍

  【アハマッド・シャー・マスード】
 
北部同盟最高司令官

「Massoud」へ捧げる詩「Massoud」へ
   捧げる詩

 

 

 

  2001.9.9テロによる
        凶弾に倒れる

 時間よりも「どう生きたか」が大切だと語っていた
        マスード氏の生き方は、敬意に値するものだ

 

 

 

    1952年アフガニスタンパンシール峡谷のジャンガラック村で生まれる。
    「パンジシールの獅子」の異名を持つ軍事の天才で、アフガニスタン
    では英雄的存在。ソ連撤退後は国防相を務める。
    また6人の子供の父親で、暗殺される時まで各ムジャヒディン勢力の
    残兵を集めてタリバンに対抗する「北部同盟」の最高司令官をしていた。
    マスードは、アフガン国内外からも軍人としても、また1人の人間としても
    多くの支持を得ていた人物でもある。停年49歳の生涯のうち、
    半分の25年を国の為に戦ったマスードはタジク人。
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 【マスードが求めた理想とは・・・】

 ━━年をとることは恐くない?
「恐ろしくも、悲しくもない。父親は九三歳まで生きたから、
自分は、まだまだという感じ。
時間よりも、『どう生きたか』が大切だと思う」
━━日本へはいつ?
「日本には、いつか行ってみたい。
でも、家を作るのに、お金を使ってしまったから、
また貯まったら行くよ」
━━行ってみたい所は

「カイロとイスタンブール。
歴史ある街並と美しいモスクを見てみたい」
好きな季節━━
「春と秋」
好きな色━━
「浅いブルー」
好きな花━━
「インパチェンス(鳳仙花の一種)」

※花言葉/インパチェンス(強い個性)

(2000年8月ジャンガラックの新しい家の前での
インタビューから・・・)

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マスードは、誰とでも対等に向かい合うことを求めていた。組織づくりで
立ち寄った村では、馬に乗ったままでは失礼だと村の手前で馬を下り
歩いていった。また無名の一戦士にも彼は礼を尽くした。戦士たちも
戦闘での彼の勇敢さや病気で苦しむ仲間を看病するマスードの優しさ
を讃えていた。
マスードは、未来の理想だけを説くのではなく、
いまを生きている人間を、大切にする指導者でもあった。
わずかな財源
を割いて、多くの学校も建て病院を造ろうとしていた。

それは人々の支持なしには戦いを続けていくことができないと考えて
いたからなのかも知れない。
1952年アフガニスタンのパンシール峡谷
のジャンガラック村に生まれたマスードだが、この「マスード」という名前
は「戦闘名」(運の良い人)という意味で、アハマッド・シャーが彼の本名
である。
軍人の父を持つ家に生まれたマスードは、幾度となく父の転勤
によってアフガン各地を転々としたのちカブール大学建築学科に進む。

カブール大学に入学してまもなく改革への二つの潮流の一つだった
イスラム回帰主義運動に参加するようになっていった。幼い頃からモスク
に通い、熱心なモスリムになっていたマスードは、当時もう一つの潮流と
なっていた「マルクス主義」による共産主義が力を伸ばし、
イスラムの信仰が疎かにされていく風潮に危惧の念を抱いてたのだ。

やがて政府による弾圧が強まり、マスードの仲間が逮捕・獄中されていく
中でマスードは、仲間たちとパンシールで蜂起を試みるが失敗、
以後3年間をパキスタンで過ごすことになった。1978年、左翼勢力による
クーデターで政権を手にすると、マスードは故郷のパンシールに帰還。
28人の仲間と共に戦いを始めイスラム解放区を実現。
しかし、1979年12月イスラム革命の中央アジアへの波及を恐れたソ連が
軍をも侵攻させてきたのである。
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マスードは、パンシール峡谷を拠点にしてソ連からの補給路を攻撃した。
ソ連は幾度も大攻勢をかけたが、マスードの知略の前に敗退を続けて
いくのだった。マスードはソ連軍に「パンシールのライオン」と恐れられ
その名を世界に知られるようになっていった。こうして、
彼の長いゲリラ活動の基盤が造られていったのだ。

マスードが、いちばん力を注いだといわれるのが、このゲリラ戦線の統一
だった。アフガニスタンという国は多民族国家で、その50%を占めるのが
アーリア系のパシュトゥーン族である。次にペルシャ系のタジク人が30%
をモンゴル系ハザラ族・ウズベク人・トルクメン人(10%)などが共生する。
ゲリラ組織も、それぞれが党派をつくり抗争が絶えなかったのだ。

また、周辺国の支援がさらに人々を分断した。国内にパシュトゥーン人を
多く抱えるパキスタンは、アフガンの同じパシュトゥーンの戦士組織を強力
に支持した。その分タジク族への支援は少なかった。

またイランは、同じイスラムでも少数派のハザラ族を支援していた。こうして
各派が主導権を演じていく中、
マスードは民族の違いを乗り越え、同じ
イスラム教徒としての団結を訴えた。ソ連侵攻当時に、こうしてつくられて
いった各民族組織による、戦士組織も統一がなければソ連を、この国から
追い出すコトはできないと各地の指導者を説得して歩いたのだった。
ソ連軍から100万ドルの賞金をかけられ、また対立する組織からも命を
狙われる中、マスードは精力的に動いていった。
そのソ連との戦いもソ連
が軍の10万人にも及ぶ死傷者と9年間で450億ドルという巨額な戦費を
使い撤退していった。のちにソ連経済を疲弊させ、
ソ連崩壊の一因になったことは、いうまでもないだろう。

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しかしアフガンに平和が、訪れることはなかったのだ。1992年4月29日
に首都カブールへの入城を遂げたマスードたちだったが、その平和な生活
は長くは続かなかった。
パシュトゥーン人からなる組織ヒズビ・イスラミが
ロケット弾を使い首都を攻撃してきたのだった。さらに、ドスタム将軍の
政権離脱後は、そこにハザラ族のヒズビ・ワハダットも加わった。これらの
グループを退去させたものの、95年には南部からタリバンが迫ってきた。

やがてタリバンからの攻撃を退けたものの、翌年には東部のジャララバード
の知事が1000万ドルでタリバンに買収され、さらには首都防衛の一翼を
担っていたヒズビ・イスラミの司令官も買収され戦線を放棄した。
このことによって、首都の防衛線の一角が崩れマスードは96年9月首都
から撤退していった。
のちにマスードはインタビューの中で「踏み止まり戦闘を続ける事もできた
が、そうすれば多くの市民を巻き込む事になる。これ以上市民を傷付ける
事も、首都を破壊する事も出来なかった。」と語っている。
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93年から95年にかけてのヒズビ・イスラミによるロケット攻撃によって、
550人が死亡したといわれ。96年に入るとタリバンからの866発のロケット
攻撃を受け、180人が死亡。500人が負傷したとも伝えられている。
そして、
そのロケット弾を供給していたのはパキスタンだった。
パキスタンにとって
みれば、マスードが首都カブールに入城したのは驚きだったのかも・・・・・
知れない。なぜなら支援し続けていたパシュトゥーン人からなる組織
ヒズビ・イスラミや他のパシュトゥーン人からなる組織では無かったから
だろう。
パキスタン軍にとっては、宿敵ともいえるインドに立ち向かうために
も、アフガニスタンという国がパキスタンのいうことを聞く国でなければ、

ならなかったのだろう。

パキスタンはパシュトゥーン人からなる組織ヒズビ・イスラミの司令官たちに
お金を渡し破壊工作などによる政情不安を、創り出そうとしていたと言う。
またアメリカの米国務次官補は「タリバンはパシュトゥーンの多数派。
だから安定をもたらす。あなたは(マスードに対して)は少数派で安定を齎す
事はできない」とハッキリいったという。アメリカはマスードたちを認める事は
なかったが、タリバンが首都カブールに入城すると、その数日後には認知の
ため特使を派遣しようともした。ただし、これはアメリカ国内の女性人権団体
からの反対にあい取り止めた経緯がある。

現在アフガニスタンの政権を実質的に握ってるといわれるタリバンは、
女性たちへの教育や権利を認めていない。
しかし、マスードは
「女性への教育や権利を認めず、裁判もなしに処刑する・・・これは本当の
イスラムではなく、イスラムに対する反乱です」と語っていたという。また
彼は「タリバンは『自分たちはパシュトゥーン族で多数派。圧倒的な領土を
支配下に置いていて人々も支持している』と、よく主張します。しかし多数派
で、民衆の支持があるなら一緒に選挙をしようではありませんか。私たちは
その結果を受け入れます。・・・が彼らがそうしない以上、わたしたちは彼ら
に全てを委ねることは、できないのです。」と話していたという。

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マスードの夢は「アフガニスタンを解放したら、あとは有能な政治化に任せて
大学に戻り、断していた勉強をし直したい。」と話していたという。

また、それから7年後には「貿易の仕事がしたいなぁ。電話をたくさん置いて
人々が喜ぶような物を輸入したい。」とも語っていた。

95年カブールで長倉氏がマスードと別れる際に「いつ、あの夢を叶えるのか」
と聞いたとき
「人はそれぞれ神に対して責任がある。それを果たしたら、
私も普通の人間に戻ります。」と語ったと言う。
また、マスードたちがカブール
へ入城し撤退していくまでの間に努めた国防相を「務める」にあたっても、
周囲から重要ポストを要請されたが固辞「政権を横から支える」事を選んだ。
このコトは
マスードの側近は彼に野心がないことを、こぼしていたというコト
からも解る。が、
マスードは「いまのアフガニスタンは誰がリーダーになっても
人の協力なしに国家の再建はできません。私が、権力への野心を持てば、
それ自体が新たな抗争の原因になるのです。」と語っていたと言う。

また「タリバンやパキスタンを含めた全ての勢力が戦争では解決できないと
いうことを理解し、話し合って平和な状況を作り出し、国民の選挙によって
自らの将来を決めること。これに優る勝利はありません。」とも語っていた。

世界的に名を知られるようになっても、決して奢るコトなく誰にでも分け隔て
なく接していたから多くの人々からの支持を得てきたのであろう。回りから
色々と言われても、気にせず信念を貫いた人物だ。
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私は、この世を創ったものがなぜ 
このような色を選んだのかわかりません
砂漠も赤く、山も赤く、部屋の中も
そして道路の上までも赤い
犠牲になる人の血で、着ている服まで赤くなっている
そして、顔を血まみれにして真っ赤になって死んでいる人・・・・・
この色を選んだのかわかりません
土だけでなく、咲いていた野生のチューリップの花の赤ではなく
人間の血の色で赤くなっている砂漠
そして夕方の太陽よりも真っ赤に染まっている空
私はなぜこの色を選んだのかわかりません
春のうれしさが悲しみになって
私の悲しみが死になって
そして花壇や花があるところ
すべての美しいところは真っ赤になった
(青年戦士カリル・ラハマンの詩)TOPへ戻る

敵の弓の矢で人が命を 失わない日はありません
そして人々が、自分の手足を 失わない日はありません
敵の残酷な火が村を焼き尽くさない 日もありません
親を亡くした子どもたちの泣き声が 聞こえない日もありません
心が二つに割れず、自分の家族から犠牲をださなかった
日をすごしたこともありません
国の砂漠のあちこちは、シャビードのお墓の上につけられた
ロウソクの灯りでいっぱいです
春がいまほど、犠牲者の血で赤く
美しくなっていることはありません
歴史の本は戦いについてたくさん書いてはいるけれど
書かれていないこともたくさんあります
この貧しい人々のためには
神が力を貸して勝利をものにするしかありません
おーい、戦士たちよ、バラバラになっている戦士たちよ
努力して集まって下さい 結果は貴方たちのものなのだから
(青年戦士カリル・ラハマンの詩)

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わたしは、今回のアメリカでの連続多発テロを考えていた頃に、マスードが
卑劣な自爆テロの凶弾に倒れ傷付き生死をさ迷っていたのだと、メディアを
通して知る事になった。このページに記載したマスード氏が微笑んだ写真を
見ていると、
彼の優しい眼差しには「アフガニスタン」に対する真の愛情の
ようなものを感じる。
確かに、彼自身も武器を手に戦ってきた経緯はある。
けれど
それらの行為は、侵略や征服などといった野心を秘めたものではなく
それはアメリカで起きた、あの悪夢のような卑劣なテロ行為などではなく、
暴力や権力から自らの国を自らの力で守り抜く為のものだった
のだと思う。

25年以上に渡り、ただ「アフガニスタン」の他国の介入によらない、
「真の再建」の為に戦い続けた、そんなマスードこそが「アフガンの未来を
握るカギを持つ、
勇士だったのかも知れない」と、わたしは心の片隅でふと
思ったりもする。
もちろん何もマスードが、この悲惨な状況のアフガニスタン
を一人で救えるとは考えてはいない。けれど・・・事態を変えられたかも知れ
ない
人物だったようには思ったりしている。TOPへ戻る

同時多発テロ以来アメリカは、「北部同盟」とコンタクトを取っている。
「北部同盟」は過去に1度政権を握った。・・・が、タジク人が多い
「北部同盟」はパシュトゥーン人が多数を占める多民族国家ということも
あったためか、努力の甲斐も虚しくアフガンの統一迄には至らなかった
経緯もある。しかし戦士としてのタジク人は、他のアフガン民族よりも
優れた戦略を持ち合わせている一面もある。
「北部同盟」も単独の政権を
目指すのではなく。「アフガニスタン」の国民として、パシュトーン人たちとも
歩調を合わす、努力をしていかなければ「アフガニスタン」の真の再建は
永遠に、訪れないかも知れないと言う事を忘れないでほしいと思う。

「アフガニスタンの再建」には、多民族国家のアフガンの人々が一丸と
なって協力しあっていかなければ、いけないのは、いうまでもない。

・・・・・が、これ以上テロリストや暴力や紛争を増やさないためにも。
自国を愛するように他の国のことも、尊重し認め合い話し合いによって
協力し合える関係を、全ての国々が持つときなのだと思う。

改めて、今回アメリカでの連続多発テロにより亡くなられた方々の、
ご冥福を祈ると共に、今は亡きマスード氏が、心から愛したアフガン
の再建。それから真の平和と安定と安全。そして49歳という若さで
テロの凶弾に倒れたマスード氏の冥福を心から祈ると共に、
この特集を追悼の気持ちを込めて捧げたい。
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神よ、私はもう我慢できません
ガラスのような心が、石の下でこなごなになりそうですから
おーい、暗い夜よ、貴方は私の人生のようだ
空のずっと端っこに見える星よ
貴方は暗い人生の中で恋人のようだ
夜空の暗い雲よ、貴方は私の思い出のように
泣きながら雨を降らしている
(ある戦士の詩) 

「愛」━━
愛する暇がない。こういうのは時間のある時の話しです。
「結婚」━━

これは人間の自然の成りゆきです。平和になれば、結婚します。
「恐怖」━━
私だって、人並みに怖いこともあります。
「死」━━
私が死ぬ時、それが神の意志だろう。
神の御加護がある限り戦う。命、燃え尽きるまで戦う
と言う言葉が好きです。
(1983年5月ジャンガラックの家でのインタビューから・・・)

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