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タリバンは至る所で「神話」を作り出した。厳格な規律で地域の 治安を回復し、ケシの栽培を禁止し、戦争に疲れた住民の歓迎を 受けた。各地からタリバン入りを志願する青年が集まり、戦力は あっという間に数万に拡大していった。95年にはいると、タリバン は北進を開始する。彼らがまず血祭りに上げたのは同じ パシュトンー族のヘクマティアルの部隊だった。かつてカブールを 震撼させたヘクマティアルも、パキスタンの後ろ盾を失ったいま、 タリバンの前に成すすべもなく敗走していった。その後ヘラートなど 中部の各都市を制圧したタリバンは、96年9月、何回かの攻撃の 後ついに首都カブールの制圧に成功した。しかしタリバン政権を 承認したのは、パキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦など 一部のイスラム諸国に限られていた。
ラバニ大統領やマスード国防相は、それぞれ故郷に立てこもり タリバンへの抵抗を続けていった。翌97年、満を持したタリバンは 1月のマスード派を攻撃。5月のドスタム派攻撃。7月と三波に渡り 北部討伐軍を繰り出した。しかしそのいずれもが失敗に終わる。 とくに5月のドスタム派攻撃は悲惨なものだった。密かにドスタムの 副官マリクを味方につけ、本拠地マザリ・シャリフなど北部諸州を 制圧したのもつかの間,ドスタムが仕掛けた罠に見事に、はまって しまったのだ。その結果は精鋭3千人が捕らえられ、5千人が 袋小路に追い込まれるという惨敗ぶりだった。 6月のマスード派平定作戦は完全に裏をかかれた。タリバン主力が 本拠地を攻撃する間に迂回したマスード部隊がカブールを猛攻撃。 8月末にはタリバンに首都退去を要求するに至った。
ただマスード派には首都奪還の意図はなく、その後カブール北方 数十キロのあたりで、にらみ合いが続いた。 ラバニのアフガニスタンイスラム共和国に対し、タリバンは 「アフガニスタン・イスラム首長国」を主張。国際的承認を競うことに なっていく。98年7月、準備を整えたタリバンは、ふたたび北部進撃 を開始した。今度は簡単にマザリ・シャリフを陥落マスード派拠点を 除く、ほぼ全土を支配下に、おくことになった。 97年の失敗は相当頭に来たらしく、マザリシャリフ制圧後、 現地の人4千人を虐殺したともいわれてる。両者の力関係からみて、 この状態が、かなりの長期間続くものと見られる。
99年3月には タリバンとマスード派の間で停戦が成立し共同政府を作ることも 検討されたが、その後戦闘が再開され今も和解には至っていない。 
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