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それから10年、最大時12万の兵をつぎ込んだソ連は、ついに撤退を 余儀なくされる。そして、まもなくソ連は崩壊し、中央アジア諸国は いくつかの共和国に分解していった。残されたナジブラ政権は 一党独裁を放棄。閣僚35人のうち26人を非党員から登用するなどの 手段で必死の延命を図る。米国もこれを受け入れ、国連監視下での 自由選挙を呼びかけた。しかし事態は米国の思惑を乗り越える形で 進んでいく。イスラム勢力は、社会主義の傾向を持つ政権が継続する ことに我慢できなかったのだろう。1992年、ナジブラ政権に対して抗争 を続けてきたマスードらのイスラム勢力が、ラバニを押し立て首都 カブールに迫った。頼みとするドスタム将軍の戦線離脱によりナジブラ 政権は崩壊しく。この後パキスタンの仲介で15から20を数える ゲリラ諸勢力の連合政権が成立していった。ゲリラ・宗教指導者・ 知識人50人からなる統治評議会は、「アフガニスタン・イスラム共和国」 を宣言した。しかしアフガンは、元の平和なアフガンに戻ることは なかった。多民族の寄り合い国家という弱点が露呈される。
国家をどう再建するかを、巡り厳格なイスラム化を主張する ヘクマティアル派と、政教分離し近代民主政治を導入しようとする カブール派が対立した。しかし理論上の対立は上辺だけで、実体は ゲリラ各派の権力争いだった。それだけに、この対立は抜き差しならない ものとなっていく。とくに建国の元を作りながら、これまでカブール政権の 風下に置かれていたパシュトーン族の支配権要求は執拗で、その背後 にはアフガンを属国化しようとするパキスタン軍部の意図が働いていた。
厄介なことに、財政的破産にもかかわらず、武器と無鉄砲な若者だけは 有り余る程ある。一度は連合政権の首相となったパシュトーンの指導者 ヘクマティアルは、自らの要求が入れられないと見るや政権を離脱。 カブールとパキスタンを結ぶ要衝を確保し、カブール市内に向けロケット 砲を無差別に打ち込んだ。一方ナジブラ政権で軍司令官を務めたタジク 系のドスタム将軍は、自らの支配区を半ば独立させ 政府の意向を無視するようになっていったのだ。
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